関帝記5〜関羽1

 ここは、甘夫人のためにも「関羽様の妻」になっておくのがいいかもしれない。その方が私の身も安全だし、どうせ、劉備様と再会されるまでのことだし。
 そう心の中でつぶやくと、私は甘夫人にむかって申し上げた。
「では、どうぞそのようになさって下さい」
 そして、軽く頭を下げた。
「それって、いいってこと?」
「はい。それで、少しでも奥方様のお心が安らかになるのでしたら……」
 すると、甘夫人は嬉しそうに頷かれた。
「ありがとう、遥。大丈夫。悪いようにはしないわ。でも……ふふ。そうとなれば、善は急げ、よね!」
 甘夫人はそうおっしゃると、侍女を従えてその場を後にされた。
「……本気か?」
 夫人を廊下までお見送りして溜息をつくと、聞き覚えのある低い声がそう尋ねた。
「関平さん……?」
 私がその名を呼ぶと、柱の影から彼が出て来た。怖い顔をして。
「お前、本気で父上の妻になろうと考えておるのか?」
「ええ、まぁ……」
「ならぬ!」
 そう叫んで、ドンと傍の壁を叩いた関平さんの勢いに、私は思わず目を丸くした。
「関平さん、そんなにお父様のこと……。いえ、当然ですよね。後の世でも『軍神』と言われる程の方なんですから。ですから、私のようなどこの馬の骨とも分からぬ異国の女が突然『妻です』なんて言ったら、気分悪いですよね。ごめんなさい!」
 私がそう言ってペコリと頭を下げると、彼は首を何度も横に振った。
「分かってない! お前は、全然分かってない!」
「は……?」
 分かっていないと言われても、私に彼の気持ちなど分かるわけもなく、私はただただ、首をかしげていると、彼はいきなり私を抱きすくめた。
「関平さん……?」
「私は、お前のことが好きなのだ!」
「ええっ!」
 
驚いた私がそう叫んで彼の腕から逃げようともがくと、彼は私を抱きしめる腕に力を入れた。
「関平さん?」
「たとえ相手が父上であろうとも、譲るつもりはない!」
「そ、そんな……。だって、私達、会ったばかりなんですよ? お気持ちは嬉しいのですが、どうして、そんな……」
「会ってからの時間で言えば、父上とお前とだって同じはず。何故、父上の妻になれて、私は相手にならぬのだ!」
「それは……」
「軍神だから、だな……」
 そう言うと、平さんは私を離した。
「何をやっているのだ、私は……。父上にかなうはずもなかろうに……」
「そんなことないですよ! 平さんは平さんで、いいところだっていっぱいありますし!」
「ならば、何故……」
 そう言って私を見る平さんの表情がとても切なく、私まで胸が締め付けられた。
「平さんこそ、どうして私なんか? 会ったばかりだというのに……」
「曹操に下れと言ったお前の胆に惚れた」
「え? それだけ……ですか?」
 もっと色んな賛美の仕方があるだろうに、と思ってしまった私がいた。
「ああ、それだけだ」
 けれど、彼はそんな私の落胆に気付きもせずに、ぶっきらぼうにそう答えた。
 何て単純な男……。
 私はそう心の中でつぶやくと、そっと溜息をついた後で作り笑顔を浮かべた。
「関平さん、どうせ関羽様が劉備様と再会されるまでのことですし、何より関羽様と奥方様の名誉を守る為でもあるのです。ここはこらえて頂けませんか?」
「そういうことなら……分かった。あまりしつこくすると、良くないしな」
 彼はそう言うと、溜息をついた。
「だが、1つだけ覚えておいて欲しい。私の気持ちがお前にあるということを」
「分かりました」
 私はそう言うと、微笑みながら彼を見送った。
「……ふぅ。平さんには悪いけど、今の私に彼の相手は無理だわ。それより、幸奈。あの子を早く見つけなくちゃ! もし一緒に飛ばされてるとしたら、困っているはずだもの!」
 そうつぶやいて頷いた私は、気付かなかったのだった。廊下のむこうで関羽様ご自身が私達のやりとりをご覧になっていたことに。

――というわけですので、今宵からは私が関羽様のお世話をさせて頂きます」
 その夜、私は関羽様の部屋でそう言うと、一礼した。
「承知した」
「それで、何かすることはありますでしょうか?」
「別に無い。それ故、休むがよい」
 関羽様はそうおっしゃると、顎で奥の寝台を指された。
 ドキン!
 「妻」になるということの意味が、途端に重くのしかかってき、頬がほてってきた。
 ……そうよね。「妻」っていうのは、やっぱり、そういうのもアリ、よね……。ど、どうしよ……。
 そう思いながら、チラリと関羽様を見ると、関羽様は自分で酌をしてお酒を召し上がりながらおっしゃった。
「私は、そこの長椅子で休む故、心配せずともよい」
「え……?」
 拍子抜けしてしまった私は、思わずそう声に出して聞き返してしまっていた。
「何もせぬ」
 だけど、そんな私を関羽様はチラリとも見ずに不機嫌そうな表情のまま、そうおっしゃって、お酒を飲み続けられたのだった。
 ひょっとしなくても、私に魅力が無いってこと? それ以前に、異国の変な女は眼中に無い?
 そんなことを考えて泣きそうになっていたからだろうか。先程より優しい調子でおっしゃった。
「平の想い人に手をつけれるわけがなかろう?」
「え!」
 そう大きな声で言いながら、嫌な予感が私を襲った。
 まさか、まさか……。
「さっきの……」
 私がそう言いかけると、関羽様はこっちを見ずに頷かれた。
「ああ。聞いてしまったのだ。先程、関平がそなたと話しておったのをな」
「そう……なんですか……」
 ショックはショックだったけれど、だからといって、事実が変わるわけでもない。まして、関平は、あの調子だし……。
 どうしたらいいのか分からず、途方に暮れていると、申し訳なさそうに関羽様がおっしゃった。
「そなたには苦労をかけるが、これも兄者と再会するまでのことと思い、辛抱してくれ」
「辛抱なんて、そんな……! 戦場で命を助けて頂いたのですもの、これくらいでお役にたてるのでしたら、喜んで!」
「ふふ……良い娘御だな」
 関羽様はそうおっしゃると、にこりと微笑まれた。
 優しい笑みだったのに、何故だか私は胸の奥が痛んだ。
 お互い「フリだけ」って分かっているし、劉備様と再会されるまでのことだもの、そんなに良心が痛まなくてもいいはずよ。なのに、どうして……。
 気が付くと、私の頬を暖かいものがつたっていた。
「……幸奈……」
 それに気付くと、思わず行方不明の親友の名前をつぶやいていた。
 そうよね。こんな時は、あの子でも話を聞いてくれるんだもの、頼りになるはずよ。どこにいるのか、全く分からないけど……。
 そう思った時、反対の目からも涙が溢れ出て来た。
「その名は、そなたの……」
「大事な人の名です」
 私が頷きながらそう言うと、関羽様は少し困った表情をされた。
「再会出来るとよいな」
「はい」
 そう答えながら、私は覚束ない足取りで長椅子の方に歩いて行った。
 涙は何とか止まったけれど、何かが胸の奥からこみあげてくる感じがしていた。
 けれど、だからといって、「軍神」たる関羽様をこんな長椅子でなんか休ませるわけにはいかない。私がこっちを使わなくては……。
 そう思って、そこに横になると、私は泣きながら寝てしまったようだった。後のことは覚えていないので、多分……。
 だから、気付きなどしなかったのだ。関羽様が幸奈のことを恋人だと勘違いされている、ということに。
「大事な者、か……。どうすればよいのやら……」